フィリピンを学ぶ-死の行進-【フィリピン留学】
17世紀から350年続いたスペインの統治、その後、
アメリカ
日本
アメリカ
と植民地支配が続き、ようやく独立国家として歩み出したフィリピン。
今回は、日本が統治した第二次世界大戦中の悲劇の1つとして知られる、バターンの死の行進についてご紹介します。
CONTENTS
4月9日(祝)武勇の日の由来
フィリピンの祝祭日にあげられる4月9日武勇の日は、
に由来するものです。
これは、フィリピンとアメリカの軍人たちが日本軍の捕虜となり、
劣悪な環境の中3~4日間の短期間に
100㎞余りを徒歩で護送され、命を落とした多くの人々を慰霊する目的で定められたものです。
バターン占領
第二次世界大戦中の1942年4月9日
フィリピン侵攻を続けていた日本軍はバターン半島を占領しました。
フィリピンとアメリカの軍人たちは日本軍の捕虜となり、サン・フェルナンドまで100㎞余りの護送を余儀なくされます。
しかし、捕虜の人々の数は、日本軍が予定していた
3倍以上の7万6000人にものぼりました。
そのため、鉄道と車を利用した輸送計画が破たんし、
捕虜の人々は100㎞余りを徒歩で護送されることになったのです。
炎天下100㎞の死の行進
熱帯のフィリピンの炎天下で3~4日間の短期間で異常な距離を歩かされたこの護送は、
と呼ばれています。
捕虜の人々の間には、
戦闘による負傷
が蔓延し、戦時下の食料や水の不足なども重なり最悪の状態となりました。
1万人以上もの人たちがこの行進の最中に命を落としたと言われています。
慰霊する人々
バターン死の行進から70年以上経った今も、この地を慰霊する人々が後を絶ちません。
旅行会社では、この道のりを歩くツアー開催しています。
行進のスタート地点である
マリベレスとバガックには0キロポストを設け、
1㎞毎の距離標が行進の最終地点のサン・フェルナンドまで100㎞余り続きます。
また、国道沿いには、死の行進を悼むモニュメントが数多くあります。
その中でも最終地点に向かう途中のラヤックの
ラヤック・ジャンクション・モニュメント
は、当時の行進の悲劇を克明に再現しています。
まとめ
第二次世界大戦の傷あとを残すフィリピンでは、犠牲者の慰霊を国内外の人々とともに続けています。
そして、過去の悲しみを繰り返さないように未来を見つめて日々を大切に生きているのです。
フィリピン留学では、このようにフィリピンと日本、そして世界が歩んだ戦争の歴史を辿ることができます。
バターン死の行進のルートを訪ね、新たな時代の在り方について考えることも貴重な経験となるでしょう。